ベーシックインカム:馬鹿げたもの

トピック「ベーシックインカム」について

 

ベーシックインカムがナンセンスであり、まともな考察に値しないものであることに関しては、広くコンセンサスがあるように思われる。

さて、それがなぜであるかについて考えてみよう。

リバタリアンベーシックインカムには賛同しない。これは確かなことであるように思われる。ベーシックインカムよりは、ミルトン・フリードマン流の負の所得税の方が相対的に見てまともな制度であろう。

ベーシックインカムによる給付は必然的に非効率となる。かつて「定額給付金」という常識と理性の全てを冒涜する政策が存在していたが、ベーシックインカムとは「定額給付金」の永続化に他ならない。ベーシックインカムと資本主義は決して相容れない。

ベー シックインカムの場合は財源が問題となる。ベーシックインカムの財源を消費税のような累進性の低い税で賄うのは無意味なので、ベーシックインカムの財源は 所得税のような累進性の高いものにならざるを得ない。もちろん税は盗みであるので、あらゆる税は撤廃されなければならない。この時点でリバタリアンであれ ば即座にベーシックインカムを否定するだろうが、リバタリアン以外に対してはもう少し語る必要がある。少し想像してみれば分かるが、この場合の「ベーシッ クインカム」では給付額より支払額の多い層が必然的に発生する。没収してから再びばらまく茶番劇は確かに国家の十八番ではあるが、流石にこれはあまりに馬 鹿げている。現金を没収してそれ未満の現金を渡し、「ベーシックインカム」と自称する!それはただの再分配だろう!

恐らくベーシックインカムの支持者もそのような事態は望んでいないはずだ。ならば、ベーシックインカム支持者は何を財源にしようと考えているのか?答えは1つしかない。どこからも奪えないのであれば、無から創造すればいい!

こ うしてベーシックインカムの唯一可能な財源は貨幣発行益、つまり財政ファイナンスとなる。しかし、ベーシックインカムは大量の財源を必要としているので、 その財源を賄うために不換紙幣を大量に発行すれば、我々は激しいインフレに直面し、ベーシックインカムの発想そのものも破綻するだろう。「バーナンキの背 理法」によれば、不換紙幣を発行してもインフレが発生しないのであれば、無税国家が誕生するはずであるが、もちろん無税国家を作れると考えることは誤りで あるので、不換紙幣を発行すれば必ずインフレが発生する。

ベーシックインカムは無税国家によってのみ成立可能性のある幻想に過ぎない。もし 無税国家が実在するのだとしても(そんなことは絶対に有り得ないが)、我々はベーシックインカムを必要としない。予算制約はもはや存在しないので、我々は 自由に予算編成を行うことができる。その状況ではベーシックインカムなどほとんど誰も望まないだろう。

結論:我々はいかなる場合もベーシックインカムを必要としない。

試訳:オーストリア学派の観点からのアダム・スミス以前の経済思想史 1

オーストリア学派の観点からのアダム・スミス以前の経済思想史 ボリューム1

マレー・N・ロスバード

 

目次

 

はじめに ⅴⅱ
謝辞 ⅹⅴ
1 最初の哲学者ー経済学者、ギリシャ人 1
2 中世キリスト教 29
3 中世ルネサンス期 65
4 後期スペインスコラ哲学 97
5 プロテスタントカトリック 135
6 イタリア・フランスの絶対主義思想 177
7 重商主義絶対主義国家の奴隷 211
8 17世紀のフランス重商主義の思考 233
9 17世紀の重商主義に対する自由主義の反応 253
10 重商主義と自由のイギリス:チューダーズから南北戦争まで 275
11 重商主義と自由のイギリス:南北戦争から1750年まで 307
12 近代経済学の父:リチャード・カンティヨン 343
13 18世紀フランスの重農主義 363
14 テュルゴーの輝き 383
15 スコットランド啓蒙 415
16 アダム・スミスを讃える 433
17 スミス運動の広がり 475
解題 505
索引 535

はじめに

 学界では「ケインジアン」と「マネタリスト」が退屈な言い争いを続けている。

 しかし彼らはどちらも政府介入を様々な点で容認する 点で誤っている。よく「リバタリアン」として扱われるミルトン・フリードマンは「リバタリアン」ではない。真のリバタリアンの立場ならば「ミルトン・フ リードマンは、ジョン・メイナード・ケインズと同様に社会主義者だ」と主張しなければならない。

 もしこの淀んだ沼地から抜け出して高みへと至りたいのであれば、我々はオーストリア学派経済学とリバタリアニズムを学ばなければならない。首尾一貫したリバタリアニズム理論はオーストリア学派経済学の理解なしでは築くことはできないと思われる。

  確かに、リバタリアニズムは「殺すな」「盗むな」といったあらゆる集団に共通の道徳を基礎に持つ政治哲学だ。しかし、これだけでは政府の強制に抵抗する十 分な地盤とはならない。脆い基礎は簡単に乗っ取られる。しかし、正しくオーストリア学派経済学を学んだのであれば、彼は永遠にリバタリアンでいることがで きる。

 オーストリア学派経済学はカール・メンガーによって創始された。そしてベーム・ヴァベルクによって発展して、ルードヴィヒ・フォ ン・ミーゼスによる再構築が行われた。そして、マレー・ロスバードの手によってオーストリア学派経済学はリバタリアニズムと結び付けられた。ロスバードは 無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)の思想を深く探究した初めての人物だった。それまでの無政府資本主義は、ただ断片的なヴィジョンが示されるだ けのものだったが、ロスバードの登場によって事態は一変した。

 無政府資本主義こそが唯一の正しいリバタリアニズムなのだと、私は主張したい。最小国家主義や古典的自由主義は誤っているか、無政府資本主義へと至る過程の途中であるかに過ぎない。

 ケインズ主義の核心は呆れるほどに単純だ。もしケインズ主義が正しかったのであれば、今頃我々は理想郷に暮らしていることだろう!ケインズが『わが孫たちの経済的可能性」について』を書いたのは驚くべきことではない。もしケインズ主義が正しいのであればそのような社会が実現していなければならなかったし、そしてケインズは恐らくケインズ主義が正しいことを確信していたに違いないのだから。

  不幸なことに、理想郷は完成しなかった。その他の空想的社会主義者の主張と同様に、ケインズ主義もまた失敗した。実のところ、ケインズ主義は、もし正しい のであれば永遠に好況を維持できなければならないのであり、本来は不況からの脱出のために使われるべきものではなかった。好況が崩壊した時点で、我々はケ インズ主義を捨て去らなければならなかったのである。我々はケインズ主義の失敗によって発生した不況をケインズ主義によって解決しようとしている。ここで 我々はシニシズムに陥っている。我々はケインズ主義を捨て去らなければならない。

 中央銀行は問題の解決策ではなく、問題そのものだ。我々は中央銀行を廃止しなければならない。この点においてマネタリズムは完全に誤っている。マネタリズムに基づいた見せかけだけの市場重視は実を結ばないだろう。

  リバタリアニズム個人主義自由主義・資本主義・主観主義・合理主義・市場主義の特徴を持っている。ここで注意してほしいのは、この中に民主主義が含ま れていないことだ。民主主義による自由主義の乗っ取りによっていかに多くの被害が出たかは測りがたい。自由主義と民主主義は対立するもので、リバタリアニ ズムは常に自由主義の側に立つものなのだ。

 政府は邪悪である。課税は盗みである。政府はほとんど自動的に拡大するもので、悪い政府ほど早く拡大する。我々はこの流れを終わらせなければならない。

 ちなみに、方法論的個人主義によれば、「我々」と呼びかけることは誤りの源だ。特にリバタリアン以外によって用いられる時は、なおさらだ。

  オーストリア学派経済学はアダム・スミスによって創始された「古典派経済学」よりも後期スコラ哲学者の偉大な伝統を高く評価する。この学派は様々な点で 「古典派経済学」よりも優れていたが、ただ利子の問題を解決することはできなかった。利子の問題への解決は概ねベーム・ヴァベルクとクヌート・ヴィクセル によって与えられ、ミーゼスがそれをより「オーストリア」的にしてその他の経済理論と密接に結合させた。アダム・スミスが理解できなかった「水とダイアモ ンドのパラドックス」は、既に後期スコラ哲学者によって解決済みの問題だった。

 インフレは有害だ。インフレよりはデフレの方が望ましい。インフレは税の一種で、最悪の税と言っても過言ではない。我々は健全な貨幣を持たなければならない。健全な貨幣への1つの道は金本位制だ。

  主流派経済学の主張する「市場の失敗」は概ね無意味で、ただ市場への政府介入の口実として使われているに過ぎない。「完全競争」は、そもそも理想状態とし ての資格を持たない。経済学の数理化に伴い「完全競争」概念は猛威を奮い、市場が「完全競争」状態でなければ機能しないと誤解させた。この点ではミクロ経 済学の罪は非常に重い。オーストリア学派経済学はいつでも「完全競争」ではなく自由競争を賞賛する。経済学とは選択と情報の科学で、選択と情報は市場と結 びつけることで有意義に働く。

 人権とは財産権だ。この命題はとてもリバタリアン的なものだ。

 我々は国家に勝利しなければならない。そうしない限り、我々は永遠に自由になることができない。