はじめに

 学界では「ケインジアン」と「マネタリスト」が退屈な言い争いを続けている。

 しかし彼らはどちらも政府介入を様々な点で容認する 点で誤っている。よく「リバタリアン」として扱われるミルトン・フリードマンは「リバタリアン」ではない。真のリバタリアンの立場ならば「ミルトン・フ リードマンは、ジョン・メイナード・ケインズと同様に社会主義者だ」と主張しなければならない。

 もしこの淀んだ沼地から抜け出して高みへと至りたいのであれば、我々はオーストリア学派経済学とリバタリアニズムを学ばなければならない。首尾一貫したリバタリアニズム理論はオーストリア学派経済学の理解なしでは築くことはできないと思われる。

  確かに、リバタリアニズムは「殺すな」「盗むな」といったあらゆる集団に共通の道徳を基礎に持つ政治哲学だ。しかし、これだけでは政府の強制に抵抗する十 分な地盤とはならない。脆い基礎は簡単に乗っ取られる。しかし、正しくオーストリア学派経済学を学んだのであれば、彼は永遠にリバタリアンでいることがで きる。

 オーストリア学派経済学はカール・メンガーによって創始された。そしてベーム・ヴァベルクによって発展して、ルードヴィヒ・フォ ン・ミーゼスによる再構築が行われた。そして、マレー・ロスバードの手によってオーストリア学派経済学はリバタリアニズムと結び付けられた。ロスバードは 無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)の思想を深く探究した初めての人物だった。それまでの無政府資本主義は、ただ断片的なヴィジョンが示されるだ けのものだったが、ロスバードの登場によって事態は一変した。

 無政府資本主義こそが唯一の正しいリバタリアニズムなのだと、私は主張したい。最小国家主義や古典的自由主義は誤っているか、無政府資本主義へと至る過程の途中であるかに過ぎない。

 ケインズ主義の核心は呆れるほどに単純だ。もしケインズ主義が正しかったのであれば、今頃我々は理想郷に暮らしていることだろう!ケインズが『わが孫たちの経済的可能性」について』を書いたのは驚くべきことではない。もしケインズ主義が正しいのであればそのような社会が実現していなければならなかったし、そしてケインズは恐らくケインズ主義が正しいことを確信していたに違いないのだから。

  不幸なことに、理想郷は完成しなかった。その他の空想的社会主義者の主張と同様に、ケインズ主義もまた失敗した。実のところ、ケインズ主義は、もし正しい のであれば永遠に好況を維持できなければならないのであり、本来は不況からの脱出のために使われるべきものではなかった。好況が崩壊した時点で、我々はケ インズ主義を捨て去らなければならなかったのである。我々はケインズ主義の失敗によって発生した不況をケインズ主義によって解決しようとしている。ここで 我々はシニシズムに陥っている。我々はケインズ主義を捨て去らなければならない。

 中央銀行は問題の解決策ではなく、問題そのものだ。我々は中央銀行を廃止しなければならない。この点においてマネタリズムは完全に誤っている。マネタリズムに基づいた見せかけだけの市場重視は実を結ばないだろう。

  リバタリアニズム個人主義自由主義・資本主義・主観主義・合理主義・市場主義の特徴を持っている。ここで注意してほしいのは、この中に民主主義が含ま れていないことだ。民主主義による自由主義の乗っ取りによっていかに多くの被害が出たかは測りがたい。自由主義と民主主義は対立するもので、リバタリアニ ズムは常に自由主義の側に立つものなのだ。

 政府は邪悪である。課税は盗みである。政府はほとんど自動的に拡大するもので、悪い政府ほど早く拡大する。我々はこの流れを終わらせなければならない。

 ちなみに、方法論的個人主義によれば、「我々」と呼びかけることは誤りの源だ。特にリバタリアン以外によって用いられる時は、なおさらだ。

  オーストリア学派経済学はアダム・スミスによって創始された「古典派経済学」よりも後期スコラ哲学者の偉大な伝統を高く評価する。この学派は様々な点で 「古典派経済学」よりも優れていたが、ただ利子の問題を解決することはできなかった。利子の問題への解決は概ねベーム・ヴァベルクとクヌート・ヴィクセル によって与えられ、ミーゼスがそれをより「オーストリア」的にしてその他の経済理論と密接に結合させた。アダム・スミスが理解できなかった「水とダイアモ ンドのパラドックス」は、既に後期スコラ哲学者によって解決済みの問題だった。

 インフレは有害だ。インフレよりはデフレの方が望ましい。インフレは税の一種で、最悪の税と言っても過言ではない。我々は健全な貨幣を持たなければならない。健全な貨幣への1つの道は金本位制だ。

  主流派経済学の主張する「市場の失敗」は概ね無意味で、ただ市場への政府介入の口実として使われているに過ぎない。「完全競争」は、そもそも理想状態とし ての資格を持たない。経済学の数理化に伴い「完全競争」概念は猛威を奮い、市場が「完全競争」状態でなければ機能しないと誤解させた。この点ではミクロ経 済学の罪は非常に重い。オーストリア学派経済学はいつでも「完全競争」ではなく自由競争を賞賛する。経済学とは選択と情報の科学で、選択と情報は市場と結 びつけることで有意義に働く。

 人権とは財産権だ。この命題はとてもリバタリアン的なものだ。

 我々は国家に勝利しなければならない。そうしない限り、我々は永遠に自由になることができない。